象徴の貧困について少し考える

「象徴」とは具体的には何かというのが実はよく分かっていないです。
社会とか世界といった、自分の外側にあるものと、自分の内面とを接続するための識別子でしょうか。


例えば、私にとって「世界」とは、パッと考えると自分、家族、アニメ、コーヒー、おいしいごはん、自宅、知り合い、勤務先、近所、よく行く店、などなどで象徴されるものです。
ある人にとって世界が、自分だけで象徴されるものだとしたら、それは確かに象徴の貧困と言えますね(象徴的貧困では意味がズレる)。


「世界」もまた象徴ですね。実際の世界と、象徴としての「世界」とは別ですし。
象徴は他の象徴で象徴できるものとします。
私にとってコーヒーは、世界中のコーヒー生産地とつながっています。コーヒー生産地というのは、新興国や途上国が多いので、南北問題についても関心があります。関心があるだけで、積極的に調べたりするわけではない、せいぜい図書館で何かのついでに南北問題についての本を借りる程度ですが。
あと、コーヒーはフェアトレードが進んでいる商品なので、フェアトレードについて調べて、そのメリットやデメリットについて調べたりしました。
つまりコーヒーを経由して、新興国、途上国、南北問題、フェアトレードが「世界」と接続されることになります。


世界が自分だけで象徴される人でも、自分を象徴するものが何かあれば、それを経由して世界を象徴するものを増やせます。世界を象徴するものは自分だけだけど、自分を象徴するものが携帯電話だった場合、その人にとって携帯電話も世界を象徴するものになります。携帯電話を象徴するものがdocomoとかsoftbankとかauとか基本料金であれば、それもまた「世界」を象徴するものの一部になります。基本料金を象徴する、、、



こんな調子で連鎖させていけば、象徴の貧困は解消可能であろうと考えます。