アートワールド もう少し考えてみる

も少し考えてみる。

その1 アートドメインの中から枠を越えることは本当に無理か

前置き

本当に領域の中から、枠を越えられないのでしょうかね。
倫理や一般常識を留保出来るアートといえど「これはさすがにどうよ」というものはあるはず。例えば「作品の(直接的)破壊」なんてのは問答無用に否定されることは想像に堅くないよね。これが、作品の纏う概念の破壊なら、全然OKだけど。
要するに「ヒゲモナリザ*1」を自分で描く、あるいは大量生産された既製品のモナリザポスターにヒゲを描くのは物議をかもすだろうけど(物議をかもしたけど)、まあアリです。
ただ、オリジナルのモナリザにヒゲを描いたら、どんな理論構築をしようとアウトでしょう。作品に対する敬意というのは、アート界における最低限の倫理といえるかも。


てことは「作品に対して失礼な事をしつつ破壊しない」というところに、アートの枠がありそう。先のヒゲモナリザだって、「モナリザ」という既存作品に対しての敬意を欠いているように見えるからこそ物議をかもしたわけだしね。
一般の常識や倫理に対して揺さぶりをかけても、アートの方はぴくりとも動かない訳。だってそれはアート本来の機能の一つだから。
そんなこんなで、20世紀はそれこそあらゆる方法で、既存の作品、あるいはアートそのものに対して揺さぶりがかけられ続けましたとさ。そして、その度にアートはそれらをどんどん吸収してきたわけですね。怖いですね。「何やってもOK」な土壌はこうして作られてきたわけですね。またそのことでアートは新しい価値観を次々と手に入れることが出来、それが美術の発展に繋がっているわけですね。良いことですね。

問題提起の仕方を変えてみる、そして既にいる実践者

前置きが長いけど、じゃあアートに揺さぶりを直接かけるのではなく、むしろ積極的にアート(の権威性)を利用してみてはどうかしら。褒め殺しみたいなもんですな。これまで叩かれ続けたアートさんにとって、これは反撃が難しいはず。吸収しようにも、アート万歳という主張はどこからかじればいいか分かりにくい。だってこれまでの攻撃者も、既存のアートの権威性については自明とした上で攻撃してきたのだから。ある意味、これまでのアートと攻撃者の関係は、トムとジェリーみたいなものだったのかもね。
そうそう、ついでに一般常識や倫理にも攻撃をしかければ完璧じゃね?


そして大変な事に何と既にこれを実践している人たちがいるのです。実際に見たことのある人たちも多いはず。見たことのない人は、秋葉原に行けば会えます。特に男性が一人で秋葉原を歩けば、ほぼ確実に向こうから絵葉書片手に近づいて来ます。
しかも、ついていくと倫理的、場合によっては法律的にまずい方法で一般常識的に酷い目に合うそうです。怖いですね。
アートの枠がどうのこうのというなら、この怖ろしい人たちはアートワールドの住人なのか、きっちり語り合って頂きたいです。
理論的に彼女(彼)らの存在を規定することで、アートは新しい価値を手に入れられるんじゃないかな。

その2 枠を壊せなければ領域から誘い出す

その1はネタも混じっているし、ちょっとラジカルすぎるとこもある。その2はもう少し真面目に考えてみる。ただ前置き部分はその2でも有効。
アートワールドの住人ってのは、基本的にアート大好きです。ついでにアートっぽいことも大好きです。
なので「アートの文脈に乗せられそうなことを、アートではないと断った上で行う」。そうするとアートワールドの住民は基本的に我慢が苦手なので、アートワールドからひょこひょこ出てきます。可愛いですね。それでも頑としてアートじゃないよと言い続ける。この微妙な状況を作り出せれば、結構建設的な議論が出来る気がするのよね。
ただ「アートの枠を越える」なんてことを趣旨に、そういう微妙な状況を作るのは難しいし、無益だろうというのが私の考え。

まとめ 現在の私の意見

アートが担っていると信じられている社会的(公共的)機能が働くのであれば、勝手にアートと呼べばいい。
アートと呼ばれたくなければ拒否すればいい。機能自体に影響はないのだから。
構ってほしいだけなら、最初から宣言したほうがいい。アート内アートはそれ自体、アートのジャンルなのだから。

*1:知らない人は知らないと思うので説明すると、ヒゲモナリザマルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q.」という実際に存在する作品。デュシャンは「髭を剃られたL.H.O.O.Q.」というのも作ってたりする。