生スティグレール見てきた

昨日、東大であったシンポジウムにスティグレールさんが来るということで、参加してきました。
5時間という長丁場ながら、密度の高い内容でなかなか消化しきれていないです。

スティグレールさんは情熱的な方で、5時間でも足りないという雰囲気。「象徴の貧困」に何度も触れていて、かなりの危機感を持っている事が伝わって来ました。

私は残念ながらフランス語は分からないので、同時通訳経由でなのですが。

一部意味が良く分からなかったり、カタカナで逃げていたけど、あれだけわけの分からない内容をリアルタイムで翻訳するのは大変だったろうなあ。
ただデュシャンの「泉」だけは「泉」と言ってほしかった。

スティグレールさんも情熱的に「便器」と語っているのは、ものすごく変な光景というか。

年末年始で、ある程度この事を消化出来るかな。時間をかけて消化しないとですね。

広島!みてきたのでした

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20090321/1237589311の記事を見て、行ってきたけど、日記には大航海を買ってから書こうと思ってたけど、なかなか買えないし、早くしないとわすれちゃいそうだよねって思ったのでとりあえず書いておきます。

行ったのは最終日の夜、東京マラソンの日。

会場に着くと、小さい女の子たちが、かめはめ波を撃ったり、弾き返したりと大バトルを繰り広げている。

受付を済ませて、階段でも激しいバトルを繰り広げる女の子たちを横目に展示のある2階へ。

女の子A「神様にあいにいかなきゃー」
女の子B「神様は空の上にいるんだよー、カリン塔の上なんだよー」

君たち、どうみても連載終了後に生まれたとしか思えないのに良く知ってますね。

「ピカッ」については映像での展示でした。実際文字にすると「ピカッ」ですが、映像のを見ると、

「゜」

「ピ」

「ピ-」

「ピ-|」(この辺再現がむずかしい)

「ピカ」

「ピカノ」

ピカソ

「ピカッ」

て感じでまったりと変化している様子が良く分かる。ちなみに「ピカッ」になったころには「ピ」は大分薄くなっちゃってました。
カメラ性能もあるだろうし、実際に肉眼で見ればまた違う印象かも。

(被爆者ではない私からみれば)表現としてそれほど過激なものではないし、きちんと関係者や被爆者の人たちとコンセンサスをとっていけば、良いものになる可能性は高かったと思う。
一方でコンセンサス無しであれやっても被爆者という、今もその被害を内包している人たちからは、「ヒロシマ」という物語を当事者でない人たちが消費しているように見えて、反発されるのは当然かと。
この反発は嫌儲の精神性に繋がるものがあるんじゃないのかなと、会場で思いついた。根拠は無い。

実寸大鶴模型による千羽鶴はそれほど印象に残らず。

後は大航海読んでから書くよ。

質問の作り方

質問力 http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20090306#p1

私は参加したシンポジウムや、講演会では可能な限り質問するように心がけています。少なくとも質問を考えながら話を聞くようにしています。
ただ、質問を考えるというのはやっぱりなかなか大変で、最終的に質問としての形にならない事もよくあり、そんな場合、時間が押していれば質問するのは遠慮しちゃいます。

でも、時間が余っているのに誰も質問しないって状況はしばしばあります。そんな時、無理やり質問するためのテンプレというかフレームワークというのを決めています。

具体例を聞く

これは割りとやりやすい。「Aについて具体例があれば聞かせていただけますか」これでOK。
抽象的な話が多いなあとか、成功パターンばかりだなあと感じたらこの質問をするようにしてます。
もっと直球で「失敗例はありますか」「障害となったことはありませんか」と聞くこともある。「事例が少なくて、まだ失敗はないです」と言われることもあるけど、大概、途中の躓きとか、苦労話とかを語ってくれます。

野望を聞く

野望とか、目標とかも質問側としては気楽ですね。答えるほうは大変だと思うけど。
「10年後どうなっているのが理想ですか」「バージョン2を作るとしたら、どんな機能を盛り込みたいか」というパターンもあります。
講演内容や、会場の雰囲気にもよるけど、可能な限りフランクな態度で聞くようにしてます。具体的な数字が知りたいのではなく、その人が目指す未来像を聞きたいので。

はじまり、きっかけを聞く

そもそもなぜそれをやろうとしたのか、興味を持ったのかというのは、大抵本人が言っちゃったりするので、実際にこのパターンを使う事は少ないかも。
でも、本人自身がその興味の対象を当たり前と思い込んでいる場合、その説明がすっ飛ばされるので、その際は有効。

理解したと思ったことを聞く

「aというのは、つまりbなのでしょうか」とか、自分の中で構築されたものを質問として投げかけてみる。
質問の文章を考えるのが難しい。とはいえ、これは会場全員が自明と思っているような内容でも構わないので、とにかく投げてみる。
「その通りです」で終わっちゃうこともあるし、講演では語られなかった補足説明が出たりする。
あと、これやると他の人が質問しやすくなる傾向がある気がする。そんな馬鹿みたいなこと聞いていいんだという雰囲気が作られるのかな。

似たようなものはないか聞く

ある事に興味がある人は、大概の場合、その周辺も調べまくっているので、似たような物、仕組み、人物がいるか聞くと大概答えてくれる。
こちらから「カップラーメンについては分かりましたが、カップ焼きそばについてはどうお考えでしょうか」と、ある程度誘導する場合のが多いかも。
人の前に立ってしゃべる人というのは、大なり小なり、自分の知っていることを伝えるという快感を求めているに決まっているので、クリーンヒットすると止まらなくなる。



もちろん、ちゃんと質問内容が固まっていればそちらを聞きます。上に挙げたのはあくまで、質問が固まりきらなかったときの逃げであって、本当にしたい質問というわけではないので。
失礼な態度かもしれませんが、上記のテンプレで時間稼ぎしつつ本命の質問を練るという事もよくやります。
まあそんなことやっても本命の質問をまとめきれたことは無いんですが。

象徴の貧困について少し考える

「象徴」とは具体的には何かというのが実はよく分かっていないです。
社会とか世界といった、自分の外側にあるものと、自分の内面とを接続するための識別子でしょうか。


例えば、私にとって「世界」とは、パッと考えると自分、家族、アニメ、コーヒー、おいしいごはん、自宅、知り合い、勤務先、近所、よく行く店、などなどで象徴されるものです。
ある人にとって世界が、自分だけで象徴されるものだとしたら、それは確かに象徴の貧困と言えますね(象徴的貧困では意味がズレる)。


「世界」もまた象徴ですね。実際の世界と、象徴としての「世界」とは別ですし。
象徴は他の象徴で象徴できるものとします。
私にとってコーヒーは、世界中のコーヒー生産地とつながっています。コーヒー生産地というのは、新興国や途上国が多いので、南北問題についても関心があります。関心があるだけで、積極的に調べたりするわけではない、せいぜい図書館で何かのついでに南北問題についての本を借りる程度ですが。
あと、コーヒーはフェアトレードが進んでいる商品なので、フェアトレードについて調べて、そのメリットやデメリットについて調べたりしました。
つまりコーヒーを経由して、新興国、途上国、南北問題、フェアトレードが「世界」と接続されることになります。


世界が自分だけで象徴される人でも、自分を象徴するものが何かあれば、それを経由して世界を象徴するものを増やせます。世界を象徴するものは自分だけだけど、自分を象徴するものが携帯電話だった場合、その人にとって携帯電話も世界を象徴するものになります。携帯電話を象徴するものがdocomoとかsoftbankとかauとか基本料金であれば、それもまた「世界」を象徴するものの一部になります。基本料金を象徴する、、、



こんな調子で連鎖させていけば、象徴の貧困は解消可能であろうと考えます。

アートワールド もう少し考えてみる

も少し考えてみる。

その1 アートドメインの中から枠を越えることは本当に無理か

前置き

本当に領域の中から、枠を越えられないのでしょうかね。
倫理や一般常識を留保出来るアートといえど「これはさすがにどうよ」というものはあるはず。例えば「作品の(直接的)破壊」なんてのは問答無用に否定されることは想像に堅くないよね。これが、作品の纏う概念の破壊なら、全然OKだけど。
要するに「ヒゲモナリザ*1」を自分で描く、あるいは大量生産された既製品のモナリザポスターにヒゲを描くのは物議をかもすだろうけど(物議をかもしたけど)、まあアリです。
ただ、オリジナルのモナリザにヒゲを描いたら、どんな理論構築をしようとアウトでしょう。作品に対する敬意というのは、アート界における最低限の倫理といえるかも。


てことは「作品に対して失礼な事をしつつ破壊しない」というところに、アートの枠がありそう。先のヒゲモナリザだって、「モナリザ」という既存作品に対しての敬意を欠いているように見えるからこそ物議をかもしたわけだしね。
一般の常識や倫理に対して揺さぶりをかけても、アートの方はぴくりとも動かない訳。だってそれはアート本来の機能の一つだから。
そんなこんなで、20世紀はそれこそあらゆる方法で、既存の作品、あるいはアートそのものに対して揺さぶりがかけられ続けましたとさ。そして、その度にアートはそれらをどんどん吸収してきたわけですね。怖いですね。「何やってもOK」な土壌はこうして作られてきたわけですね。またそのことでアートは新しい価値観を次々と手に入れることが出来、それが美術の発展に繋がっているわけですね。良いことですね。

問題提起の仕方を変えてみる、そして既にいる実践者

前置きが長いけど、じゃあアートに揺さぶりを直接かけるのではなく、むしろ積極的にアート(の権威性)を利用してみてはどうかしら。褒め殺しみたいなもんですな。これまで叩かれ続けたアートさんにとって、これは反撃が難しいはず。吸収しようにも、アート万歳という主張はどこからかじればいいか分かりにくい。だってこれまでの攻撃者も、既存のアートの権威性については自明とした上で攻撃してきたのだから。ある意味、これまでのアートと攻撃者の関係は、トムとジェリーみたいなものだったのかもね。
そうそう、ついでに一般常識や倫理にも攻撃をしかければ完璧じゃね?


そして大変な事に何と既にこれを実践している人たちがいるのです。実際に見たことのある人たちも多いはず。見たことのない人は、秋葉原に行けば会えます。特に男性が一人で秋葉原を歩けば、ほぼ確実に向こうから絵葉書片手に近づいて来ます。
しかも、ついていくと倫理的、場合によっては法律的にまずい方法で一般常識的に酷い目に合うそうです。怖いですね。
アートの枠がどうのこうのというなら、この怖ろしい人たちはアートワールドの住人なのか、きっちり語り合って頂きたいです。
理論的に彼女(彼)らの存在を規定することで、アートは新しい価値を手に入れられるんじゃないかな。

その2 枠を壊せなければ領域から誘い出す

その1はネタも混じっているし、ちょっとラジカルすぎるとこもある。その2はもう少し真面目に考えてみる。ただ前置き部分はその2でも有効。
アートワールドの住人ってのは、基本的にアート大好きです。ついでにアートっぽいことも大好きです。
なので「アートの文脈に乗せられそうなことを、アートではないと断った上で行う」。そうするとアートワールドの住民は基本的に我慢が苦手なので、アートワールドからひょこひょこ出てきます。可愛いですね。それでも頑としてアートじゃないよと言い続ける。この微妙な状況を作り出せれば、結構建設的な議論が出来る気がするのよね。
ただ「アートの枠を越える」なんてことを趣旨に、そういう微妙な状況を作るのは難しいし、無益だろうというのが私の考え。

まとめ 現在の私の意見

アートが担っていると信じられている社会的(公共的)機能が働くのであれば、勝手にアートと呼べばいい。
アートと呼ばれたくなければ拒否すればいい。機能自体に影響はないのだから。
構ってほしいだけなら、最初から宣言したほうがいい。アート内アートはそれ自体、アートのジャンルなのだから。

*1:知らない人は知らないと思うので説明すると、ヒゲモナリザマルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q.」という実際に存在する作品。デュシャンは「髭を剃られたL.H.O.O.Q.」というのも作ってたりする。

アートワールド

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/klov/20081203/1228321767

とりあえず「現代美術」ではなく、「コンテンポラリーアート」あるいは「同時代芸術」と言った方がより正確かと。
じゃないと、「現代美術っていつまで「現代」なんだよ!」とか「私が生まれる前の作品なのに「現代」ってなんだよ!」ということが気になり始めるので。



アートの文脈に乗ったらアートです

自分たちのパフォーマンスを通じて<アート>という枠組みの外に出ようとした。

枠組みの外に出たかったら、アートの文脈から発信してはいけない。アートの文脈に乗っかっておいて、アートの枠を越えることは出来ない。
はてな」で発信しておいて、<はてな>という枠組みを越えようとすることを考えてみればいい。これまでと違う何をやろうが、hatena.ne.jpから発信される限り、評価はともかく<はてな>の枠は越えられない。
ドメインの内側で何をやろうとドメインは越えられない(うまいこと言った気がする)。


参加者のほとんどが「一定の形で<アート>として規定した」のは、そもそもアートの文脈に乗せたいと、作家本人が決めたのだから、それにベタに付き合っただけでしかない。作家自身が後から別にアートじゃないとか、枠がどうのこうの何ていう「釣り宣言」をしたところで、作品は既にアートの枠内にあるわけだしね。
あくまで書かれている範囲内から読み取る限り、Chim↑Pomはそのアート認定プレッシャーに完全に負けている。そんなんでは内側から壊すなんて無理です。相手は釣り針が見えていても、釣り人まで食おうとしているのに、餌を取られた程度でそんな弱気な態度では、釣りは出来ません。


そもそもアートが(他者の)アートを否定したら、アートの価値は無いよね。特にコンテンポラリーとなれば特に。
一般の常識やら倫理やらを一旦留保出来る、かつ社会に開かれている場というのは、そうそうありません。
では、何やってもいいかと言ったら、一般的にはそうではないです。アートだからという理由で法律が適用されないなんてことはありません。開かれた場で発表する場合、アーティストや発表の場を用意する人たちは、普通に警察やら関係各所に許可を取ったり、場合によっては周辺住民に説明に回ったりと結構地味なことをやってます。
でもそれをやらずにアートとして発表されて、社会的に糾弾され、場合よって裁判になったり、警察に捕まったとしても「それはアートではない」とアートの側から言うのは不誠実だし、おそらく誰もそんなことは言わない。
ただ、その理由が「アートの枠を越えたい」なんて理由だったら、作品のクオリティの問題として叩くことはあるとは思う。


もちろん、発表の前に適切なアドバイスをし、作家と社会とを繋げる道を整備する事が、キュレーターやマネージャー、プロデューサーには求められるけどね。こういう漫画における編集者みたいな役割の人たちは、アートが社会に開かれる上で、今後ものすごく求められると思うよ。


何書いてるか分からなくなってきたので話を戻すと、「枠を越えたい」という思いに答えるのは、個人的優しさ以上の何者でもないよ。他の人は「お前はアートの文脈に乗った、だからアートだ」と、ごく当たり前の態度を取っただけ。煽れば思う存分やってくれたと思うんだけど。あるいはChim↑Pomがその議論に耐えきれる強さが無いと判断したのかも。


最後の段落について

<大衆>ではなく、リテラシーを持った「愛好者」を増やすことをスティグレールは画策している。これは作る側ではなく見る側を変えることで、アートを開く試みと言えるのかな。

象徴の貧困について少し考える

愛するということ7ページの注釈

昇華につながる真の欲望と、底の浅い満足のみを求める欲動との判別を怠っていったことが、現在の脱-昇華
すなわち象徴の貧困をもたらす一因となった、とスティグレールは考えるのである。

当然この昇華は、精神の方のです。